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三井家のDNAを受け継ぐ

三井コスメティックス創業時の写真 三井コスメティックス創業時の写真

三井家とは

日本三大財閥の一。三井高利(たかとし)創業、三井一族が支配した日本最大の総合財閥です。 江戸時代前期に越後守三井高安の長男高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開いたのが、商人としての三井家の始まりです。

高俊の四男の高利は、長男高平を江戸に送り、1673年に越後屋呉服店を開業しました。高利自身は本拠を松坂から京に移しました。 越後屋は急速に業績を拡大し、幕府の御用を承るほどになりました。 また両替商もはじめ、1690年(元禄3年)には幕府の為替御用を受けるようになり、高利・高平の北家が三井家惣領の座を確立しました。

高利の死後、その莫大な遺産は嫡男高平以下子供たちの共有とされ、各家は家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立し、一体となって三井家を運営しました。 一族の持株会社たる三井合名会社のもと、銀行・貿易・海運・鉱山・繊維など全産業にわたる財閥を確立しました。

三井一族とは「三井十一家」と呼び、本家6家と連家5家あわせて11家をさします。
男子家系の6家を本家(北家・伊皿子家・新町家・室町家・南家・小石川家)、女子家系の5家を連家(松阪家・永坂町家・小野田家・家原家・長井家)、家名は京都・松阪などそれぞれの三井家が居住する町名にちなんでつけられ、三井家当主は代々、三井八郎右衛門を名乗りました。
室町家は、三井家の創業者三井高利の四男 高伴(たかとも)を初代とし、明治8年に京都 竹屋町から室町に居宅を移したことで、以後「室町家」の通称で呼ばれてきました。

1945年 第二次大戦終結とともに、連合軍総司令部・GHQは占領初期の対日方針として、三井・三菱・住友・安田の四大財閥の解体を明示しました。
この財閥解体により273年続いた三井の歴史は幕を閉じました。
三井一族は終戦後の動乱期に全財産を凍結され、9割を財産税で没収。 資産の大部分を占める株式を一方的に処分されました。 さらに一切の企業役員からも追放されたため、無収入状態が続き、その財産力の低下は想像を絶するほどであったと言われています。 この動乱期、三井本社に続き傘下各社も次々に解体となりました。

1952年 GHQの解散指令が解除。
1955年 株式会社ポーラ化粧品本舗に在籍していた三井家6本家 室町家の当主 中川高熙(なかがわ たかひろ)は、西洋の化粧品技術を取り入れ、株式会社三井コスメティックスを創立します。
曾祖父(三井八郎右衛門 高福)が明治9年に三井銀行を設立し、同時に独自の方法で作り出した紅や白粉などの販売をしていたその志を引き継ぐこととなります。

三井コスメティックスのロゴには三井家の家紋を使用しています。

旧三井財閥系企業集団がつながりを持ちつづけグループ化し、三井グループとして現在も多方面で活躍しています。
弊社は三井グループとは資本が異なりますが、三井直系の事業としては現在、三井コスメティックスのみとなります。


三井財閥・男爵家の化粧品開発

三井財閥、三井家本家が江戸時代に紅や白粉を独自の方法で開発販売してきたDNAが、戦後に化粧品開発に取り組むきっかけとなりました。
三井コスメティックス創業者の中川高熙(たかひろ)は、西洋と日本の文化が融合する大正時代に、三井財閥・三井家(六本家・室町家の当主)に生を受け、いち早く世界の文化に触れて育ちました。

※大正時代の軽井沢
軽井沢ユニオン教会に続き、日本基督教団軽井沢教会が設立し、宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになりました。
中川が過ごした幼少期もこのような西洋文化が押し寄せてくる時代です。三井家の庭園の中には当時の日本にはまだ希少なラベンダーなどのハーブも育てていたと言います。

彼は曾祖父(三井八郎右衛門 高福)が明治9年に三井銀行を設立し、同時に独自の方法で作り出した紅や白粉なども販売してたその志を引き継ぎ、戦後 西洋の化粧品技術を取り入れ、1955年 株式会社三井コスメティックスとして誕生させたことが創業のはじまりです。
創業当時は、お肌に負担をかけず、安心して使える化粧品の開発に取り組み、当時としては画期的なアミノ酸とビタミンを取り入れた弱酸性化粧石鹸などを販売していました。
1980年、三井コスメティックスは、日本でまだハーブという言葉さえ聞きなれない時代にハーブを化粧品に生かすことを始めました。

※大正時代の軽井沢
軽井沢ユニオン教会に続き、日本基督教団軽井沢教会が設立し、宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになりました。
中川が過ごした幼少期もこのような西洋文化が押し寄せてくる時代です。三井家の庭園の中には当時の日本にはまだ希少なラベンダーなどのハーブも育てていたと言います。

〜 日本の化粧品史 〜

お肌の白さが美人の必須条件という江戸時代。 お米の粉やオシロイバナなどの植物を原料とした白粉(おしろい)より、ツキが良く、艶が出るとして流行した白粉があります。
しかしその原料は当時、手に入りやすかった鉛と水銀です。鉛は有毒な金属で鉛中毒を起こします。明治時代には人気歌舞伎役者の白粉による鉛中毒が話題となりましたが、この製品は製造中止を受ける昭和9年まで使われていました。 その後、鉛を使わない白粉が開発されるようになっていきました。

美しくなりたいと願う気持ちはいつの時代も変わりません。しかしお肌への安全性の上に、お肌を健康的に美しく導くことこそ、化粧品会社の目指す道です。

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